2017年6月18日日曜日

宇和島~八幡浜~大洲 国道378号 宇和海ツーリング

2017年5月28日、天気は晴れ。
以前から走りたいと思っていた国道378号を走ることにした。
国道378号は松山から宇和島へ至る国道で、ほとんどが海沿いを走る。
松山から長浜あたりはよく走るが、宇和海に面した部分は走ったことがなかった。



走行ルートはこんな感じ。分かりにくいが。
八幡浜からは国道378号と分かれ、国道197号の旧道である夜昼峠を走って大洲へ抜けた。



始発の特急宇和海1号で宇和島へ向かう。



特急宇和海にはサイクルルームというものがあり、自転車をそのまま乗せることができるので便利だ。
なお、サイクルルームのない列車や、乗せられる自転車の規定もあるので、JR四国のサイトで確認してください。

乗客はほとんどいなかった。
車内でくつろいでいると車掌さんに、サイクルルームは指定席券を持っていないと使えないと言われた。
以前は指定席のみの販売で、指定席が埋まっていればサイクルルームが空いていても使えなかったが、現在はそのようなことはない。自由席でも利用できる。
きっぷを見せたら「いいです」と言われ、車掌はどこかへ行った。なにがいいのかはよく分からなかった。



若干の南国ムードが漂う宇和島駅。快晴だからなおさら南国っぽいが、この日は風が冷たかった。

実は列車に乗る前に寄ったコンビニで、うっかりサイクルコンピュータを落としてしまった。買ったばかりだし、4万円以上するサイクルコンピュータのスタートボタンが反応しなくなってショックを受けていた。
宇和島駅近くのコンビニでトイレを借り、そこでもうっかりサイクルコンピュータを落としてしまったが、運よくスタートボタンが反応するようになった。ついているのかついてないのかよく分からない。



なんとかいい気分で出発できた。



交差点を右折して、県道274号へ入る。
国道378号は宇和島から吉田までは国道56号と重複している。
交通量の多い国道56号を走るよりは、少しでも車の少ないルートを選んだ。





交差点を右折してすぐのところにバス停があった。
こういうところではつい気になってバス停の時刻表を見てしまう。
意外にも本数がある。約1時間に1本もあるとは、地方にしては本数が多い方だ。



海は凪で気持ちがいい。



宇和島自動車のバスがやってきた。
宇和島自動車は塗装がシンプルな上に派手でもなく地味すぎず、とても好みの塗装だ。



海とは別れ、山を越える。
これから写真中央の鞍部(尾根の低くなっているところ)を越えるのだろうか。
だいたい山道というのは、鞍部を目指して引かれていることが多い。



急に道が狭くなって住宅が現れた。



個人経営のスーパーだ。渋い。現役なのかどうかは分からない。



車が1台通れそうな道幅しかないが、一応県道である。



住宅が途切れて道が怪しくなってきた。



そして畑が現れた。
木の大きさからしてやはりみかん畑だろうか。
愛媛はみかんで有名だが、そのほとんどは宇和島を始め南予で生産されている。



峠に到着した。
名前を調べても出てこない名無しの峠だ。そもそも峠ではないのかもしれない。いや、地形的には峠だけど。



ウォーキングをしているおじいさんがいた。
景色がいいので一緒に休憩した。



地元の瀬戸内海とは微妙に違う風景。海が入り組んでいるリアス海岸だ。



川ではなく海だけど、もしかしたら利根川の方が幅が広かったりして・・・。



一度奥の集落まで行き、対岸の道路を走ります。



集落では消防団の方がホースの点検などをしていた。
上を走る道路は国道56号。



一度国道56号に合流し、吉田町を目指す。目指すと言っても、ここも吉田町だが。



予讃線の伊予吉田駅へ寄った。駅舎は小さいが、一応一部の特急が停車する。





住吉神社がある。



住吉神社近くの吉田町浜通交差点を左折して県道314号へ。



宇和島市立吉田小学校があった。現役の学校で、平成の大合併以前は吉田町立だった。



学校の目の前は海。教室からの眺めは良さそう。



養殖用の筏が浮かんでいるが、宇和島と言えば真珠が有名だ。しかし、鯛の養殖も盛んなので、どっちの筏か分からない。見分ける方法があるのだが忘れてしまった。



南君(なぎみ)隧道という短いトンネルがあった。コンクリート巻きの一般的なトンネルだ。



トンネルを抜けると海に出る。
そして、南君集落と奥浦集落を通る。二つの集落は隣り合っている。





奥浦集落に宇和島市立奥南(おくな)小学校がある。廃校ではなく現役の学校で、生徒数は50人ほどいるらしい。集落の規模を考えると生徒数が50人以上いるのは多い方に感じる。奥浦と南君の集落が隣り合っているからだろうか。学校名も「奥南」となっているのは、両方の集落名から取ったと推測できる。



学校の前は海で、岸壁には絵が描かれている。なかなか切実である。やはり台風が来たら、松山とは比べものにならないくらい雨が降るのだろう。松山は石鎚山を始め、高い山に囲まれているので台風が来てもたいして雨も降らないし、風も吹かない。しかし南予ではそうも行かないのだろう。



釣りはやらないので分からないけど、細かくどこで何が釣れるか書かれた地図もある。地元の人が言うのだから信憑性も高そうだ。



奥浦集落には郵便局もある。ここも小学校と同じく奥南という名前が付けられている。
小さいがおしゃれな郵便局だ。
この郵便局の手前から道路が分岐する。
県道314号とはここでお別れし、県道273号に入る。それと同時に海ともしばらくお別れとなり、山へ入る。



たいしてきつい山でもなく、簡単に峠を越える。



山を下っていると貨車を見つけた。
なぜこんなところに貨車が?



よく見るとワフ295の文字が。
ワフ29500形貨車という貨車で、ローカル線向けの貨車だ。
たくさん製造されたので、廃車になってから全国の公園に置かれたり、個人に買い取られて物置として使われていることも珍しくないという。
写真に撮ってないが、確かにこの貨車の後ろには公園があった。



貨車の近くの交差点を左折する。筋という面白い名前の集落がある。



筋集落に着いた。
ガードレールもなく、海が目の前にある。
昔はこの集落にも小学校があったらしいが、このときは学校があったことを知らなかった。



海の水はきれいだ。水深も浅そう。昔は子どもたちがここで泳いだり、魚を捕っていたりしたのだろうか。



海沿いの道は平坦なところが多いと思うかもしれないが、結構アップダウンが激しい。
集落があるところだけ平坦で、集落を出ると標高を上げ、そして集落に向かって下っていく。なぜそうなっているのかは分からないけど、立派な国道でもない限りそうなっているところが多いように思う。



白浦集落でいよいよ国道378号に合流する。



さすが国道だ。上下2車線もある。



しかしすぐに道幅は狭くなった。
道は狭くてもここは国道なんだと看板が示している。



愛媛県民はみかんがなければ生きていけないのである。みかんの研究も大事なことなのだ。



深浦トンネルは2005年12月竣工の新しいトンネル。



しかしトンネルでショートカットしてしまうのはもったいないので、左の旧道へ。



トンネルの全長が197メートルと短いので、旧道もたいして長くはない。
そのせいなのかどうなのかは分からないが、トンネルが完成しても国道の指定が外れることはなく、このようにおにぎりが立っている。



現道と合流したら深浦の集落に入る。そしてまた新しいトンネルが現れる。
俵津玉津トンネルで2014年7月12日に開通したばかり。
全長697メートルとまあまあ長い。もちろんトンネルは通らず、左の旧道へ。



旧道の方にもトンネルがある。玉津隧道で、1949年12月竣工。
扁額は右から書かれている。戦後間もないとは言え、この時代に右から書くとは珍しいような。
気になって調べてみたら、現在と同じ左書きにする流れは戦時中からあり、1942年に当時の文部省が左書きに統一しようと動き出す。しかし、ある日から全部左書きにするというのではなく、徐々に広がっていくような感じだったようだ。
ということは戦後間もない頃にできたこのトンネルの扁額が右書きなのは、もしかしたらまだ左書きが浸透し切ってなかった名残なのかもしれない。なかなかトンネルの扁額ひとつ取っても奥が深い。



トンネルは素堀だった。素堀にコンクリートを吹き付けている。
照明も明るいので不気味さもなく、ゆっくりトンネル鑑賞ができる。



不思議なのは八幡浜側だけコンクリート巻きになっていること。
歴史の長いトンネルだからいろいろあるんだろう。



トンネルを抜けると西予市に入る。
西予市と言われても未だにピンと来ない。
このあたりは平成の大合併以前は東宇和郡明浜町だった。
合併後も明浜町の名は残っている。



俵津集落を臨む。



最近ではこういうメジャーな観光地でなくても丁寧な案内板が立っていたりするので、自転車乗りの私には助かる。



俵津集落にある西予市立明浜小学校。
俵津小学校、狩江小学校、高山小学校、田之浜小学校を統合してできたきれいな学校だ。
地図では俵津小学校と書かれているのものあるのだが、俵津小学校の土地に新しい学校ができたのだろうか。



渡江(とのえ)トンネル。1993年3月竣工。
旧道らしき道路はあるが、ここはトンネルを通ることにした。



狩浜集落と渡江集落の境界には手作りのイラストがあった。
狩浜の狩と、渡江の江を取って狩江なのか。そういえばさっきの明浜小学校に合併された学校のひとつに狩江小学校があった。
奥南小学校もそうだったが、このあたりは集落同士が近い公共施設の名前は両方の地名から一文字ずつ取るようになっているのだろうか。
小さい村同士、協力して生きてきたのだろうか。



たこやき島と呼ばれている小さな島。正式には長浦島と言う。干潮時には陸続きになり、島へ渡れるようになる。
たこやきにしてはちょっと長い気がしなくもない。しかし、この青い海にたこやきが浮かんでいると思うとなんだかおもしろい。



狩浜郵便局は小さくて白い郵便局だった。



小さなガソリンスタンド。
海でも山でも小さな集落にはたいていある。稼働しているのかどうかは分からないが。



以前、宇和島から南にある遊子水荷浦の段畑へ行ったが、やはりここにも段畑があるのか。





山を見れば確かに段々畑になっている。山へ登れるようだが、時間が気になったので登らずに進んだ。
この狩浜の段々畑も遊子水荷浦の段畑と同じで、江戸時代頃から開墾していったもの。漁業だけでは食糧の自給が不安定なので畑を作ることにした。当然重機などあるはずもなく、手作業で開墾していったわけだ。



こちらが遊子水荷浦の段畑。
規則正しくきっちりと段々になっていて気持ちがいい。
確か、じゃがいもを生産していると言っていた。
戦後の食糧難の時期には主に京阪神に出荷され、台所を支えたという。
もしかしたら狩浜の段々畑もそうなのかもしれない。



狩浜集落を抜けるとお伊勢山と書かれた看板が見える。山という山はない。強いて言えば、半島の突き出た部分がこんもりとなっているだけだ。



しかし立派な看板が立っているので気になる。
ちょっと階段を上ると、大きな慰霊碑があった。
この周辺の集落から出征して亡くなった人たちを祀っているようで、戦没者の名前がたくさん書かれていた。
さすがに写真を撮るつもりにはなれないので見るだけにしたが、かなりの人数だった。
それほど大きい村でもなかっただろうに、それを考えると多くの命が失われたんだなと実感する。



戦没者は今日もこの海を見ているのだろう。
海は恐らく70数年前も今も青くてきれいだったのだろう。
そんなありきたりなことを思いながら、ここをあとにした。
余談だが、慰霊碑の奥へ進むと展望台があるらしい。それを知ったのはあとのことだ。



山は徹底して段々畑になっている。



山を下ると宇和海とは思えないほどの青さの砂浜が現れる。
水深が浅く、砂も白いので海の色も明るく見えるのかもしれない。
ここは大早津海水浴場で、看板などにはあけはまシーサイドサンパークと書かれている。
あけはまシーサイドサンパークにはこの海水浴場の他に温泉やキャンプ場、民宿などがある。



明浜郵便局は小さくてきれいだった。



明浜町高山集落で渋い商店があった。
1階は木造なのに、2階は石造りに見える。不思議な感じがするが、風格があって思わず自転車を止めた。おそらく昔からこの地で商売をして栄えたのだろうか。薬品店と書かれているので、今で言うドラッグストアのような存在だったのかもしれない。



明浜町高山集落は漁業の町。



高山集落を過ぎると廃校が見えてくる。
明浜町立明浜西中学校で、2003年に廃校となった。





明浜町宮野浦集落に入ると子持岩がある。
子持岩自体は大きいから分かるのだが、鯨塚がどこにあるか分からない。
結局、自宅に帰って自分が撮った写真を見ていたら、子持岩の下の方にちょこんと墓石のようなものが立っている。それが鯨塚なのだろう。



宮野浦集落を出ると道幅も狭くなる。



山が海に張り出しているので、道路を作るスペースはない。だから少しだけ埋め立てて道路を作ったのだろう。昔、道路ができる以前は小舟で集落を行き来していたのだろう。たいてい海沿いの町は道路ができる以前は船が交通手段だったことが多い。



さっきの砂浜もそうだけど、海の色が明るい。
宇和海というと私の中では瀬戸内海より色が濃いというイメージがあったのだが。



2015年に廃校になった西予市立田之浜小学校。
統合先の明浜小学校からそこそこ走ったと思う。徒歩で通える距離ではないので、スクールバスか何かで通っているのだろう。



田之浜集落を出ると、道は再び斜面を登る。
振り返ると走ってきた道が見えた。



狭いけど国道です。



たまに2車線になったりするが、それはほんのわずかな区間だけ。
この左カーブを抜けると道は再び狭くなる。



三瓶町下泊集落が見える。
明浜町から三瓶町に入ったことになる。
三瓶町も平成の大合併により西予市となった。
合併前は西宇和郡に属していた。



バスが休憩していた。気持ちよさそうだ。



バスの行き先は八幡浜総合病院となっている。
ここはもう八幡浜の生活圏なのだ。
明浜町を走る路線バスは宇和島から来るが、ひとつ隣の三瓶町を走るバスは八幡浜から来る。隣同士なのに生活圏が違うことに不思議さを感じる。バスが走る以前から三瓶町は八幡浜との結びつきが強かったのだろうか。では明浜町は宇和島との結びつきが強かったのだろうか。そういうことを考えているとキリがない。



下泊簡易郵便局は屋根の形が入り組んで特徴的だ。
いかにも簡易郵便局という感じの見た目がよい。



お昼休憩をしていたバスがやってきた。
狭い道でも大きい路線バスが走る。



鯛か真珠の養殖筏が浮かぶ。

三瓶町朝立(あさだつ)地区に入る。
ここが三瓶町の中心で、高校もあるし、コンビニなどもある。
この街のコンビニでお昼を食べていると、80代だというおじいさんに話しかけられた。
おじいさん曰く、定年後にマウンテンバイクを始めたとのこと。できるだけ毎日、山の中にあるトンネルまで上るんだと言っていた。
そもそも80代とは思えないくらいの見た目だし、耳も遠くなくしゃべり方もしっかりしている。私もいつまでも自転車に乗っていたいと思った。



ここもみかん畑。



朝立トンネルは2008年3月竣工の新しいトンネル。



三瓶町を過ぎるといよいよ八幡浜市に入る。



穴井集落にあった渋い商店。
バス停が横に立っているのがポイント高い。
こういう商店でジュース買ってバスを待ったりしていると絵になりそう。



八幡浜市立真穴小学校と真穴中学校。



拡幅工事を途中でやめてしまったのだろうか。それとも途中なのだろうか。
舗装されずに草が生えてしまっている。



養殖筏とみかん畑が同時に見られるこの風景こそ宇和海といった感じ。
このあたりは愛媛みかんの生産地の中でも特に有名な真穴みかんの生産地だ。



海に突っ込むような感じの道路。



2014年に閉校となった八幡浜市立舌田小学校。舌間集落にある。



舌間集落を抜けると八幡浜の市街地に入る。



ずっと海沿いを走ってきたので、八幡浜の街が都会に感じる。



八幡浜駅に着いた。
ここから輪行して帰ることもできるが、まだ体力もあるし、時間も15時ちょうどなのでまだ時間もある。
ということで、夜昼峠を越えて大洲まで行くことにした。



10分もしないうちに隣の千丈駅を通過。



予讃線の車窓からもはっきり見える八幡浜市営新開町団地の前を通った。
生活の気配がないが、調べたところ新しく建て直すらしい。
昭和40年代ぐらいに建てられた団地が老朽化により建て直されているのは最近よく見かける。団地の記録は今のうちなのかもしれない。



巨大なコンクリートの橋脚が立っている。奥の山に白い柵が見えるが、そこにトンネルも作られていた。八幡浜市街地の渋滞緩和のため、このあたりから高速道路の八幡浜インターまで道路を作っているようだ。



写真を撮ったときはたまたま少なかったが、国道197号も大洲から八幡浜を結んでいるし、大洲からは国道56号で内子や松山を結んでいるから大型車両も多い。



ここがバイパスの入口か。



夜昼峠に向かう。わざわざトンネル入口までの距離を書いてくれている。



木造校舎で有名だった八幡浜市立川之内小学校。これでも2015年まで現役だった。
こんな学校に通ってみたかったな。



小学校を通り過ぎたところから国道と分かれる。
ここが旧道ではない。旧道はおそらく千丈駅の八幡浜よりのあたりから分岐して、川の対岸を走っている道路がそれなんだろうと思う。



さすがにこれが旧道としたら、いくらなんでも狭すぎる。



さっきの小学校を見下ろす。



右の道路から上ってきた。
180度転換してさらに上る。この道路こそが旧道だ。いくら旧道と言えども、こんな180度のもターンをさせるところなんてそうはないだろう。松山から内子、大洲、八幡浜を結ぶ動脈だからトラックも多かっただろうし。



警笛の標識を見て、なおさら旧道に出たことを確信した。



とにかく勾配がきつい。あっという間に現道がはるか下へ。



そういえば夜昼峠とはなかなか面白い地名だが、一般的に夜のうちに出発しても峠を越える頃には昼過ぎになっている険しい峠だったことが由来と言われているが、この夜昼峠は標高わずか300メートルほどしかない。
こんなに低い峠を越えるのに、いくら徒歩でもそんなに時間はかからないだろう。いくら昔の道が今より狭く、未舗装で歩きづらかったとしても。

調べたところ、八幡浜出身の方のサイトが出てきた。
詳しいことはその方のサイトを読んでいただくとして、概要だけまとめると、大洲から長浜を流れる肱川では冬になると肱川あらしという濃い朝靄が発生する。
その靄が夜昼峠の山を上って消えていくということで、その様子を「寄る干る」と言ったのが夜昼峠の由来ではないのかとのこと。

余談だが、この夜昼峠には「のびあがり」という妖怪が出るという。
背後から迫ってきて、10メートル以上も伸びる妖怪だという。対処法としては、気づいても絶対に振り返らないこと。
妖怪なんているわけないと思ってはいるが、時刻も15時半を過ぎて日が傾いてきた。妖怪が出て来そうな雰囲気はある。
ちなみにこののびあがりという妖怪はこの夜昼峠だけでなく、全国各地に割と生息している妖怪で、山深い日本らしさを感じさせてくれる。



旧道から分岐している道路は多い。意外にも集落が点在している。しかし、丁寧に看板が置かれてあって迷うことはない。



この道が国道だったと誰が信じてくれよう。
今では愛媛に住む人でも地元のごく一部の人しか知らないのではないだろうか。と思ったけど、夜昼トンネルが開通したのは1971年だから、旧道が現役だった頃を知っている人はまだまだ多そう。



夜昼峠最大の見所がこの千賀居トンネル。山があったからトンネルを掘ったのではなく、道路の勾配を少しでも緩くするためにループ線になっている。つまり、このトンネルの上は道路になっている。
ループ線のトンネルでは現役日本最古ではないかと言われ、近代土木遺産Bランクに認定されてあると解説に書かれてある。



トンネルの完成は1905年ということで、相当古い。
道路が開通する前にトンネルができたというのもなんだか面白い。道路があるからトンネルができるのではないかと思うけど、ループ線のトンネルだからある意味このトンネルがないとループを上ったところから先の道路が作れないからだろうか。
しかし、乗合馬車が走っていたなんて今となっては信じられない。馬車は当然今の時代いるはずもないが、バスも自動車も走ってこない。人も見かけない。ひっそりとした山道だ。昔は多くの人たちが行き交ったのだろう。



トンネルの壁は長手のレンガの段と、小口のレンガの段を交互に積んだイギリス積み。



天井のアーチ部分は長手レンガのみの長手積み。



こんな山奥の道路にも歴史があるんだな。そう思いながら通過した。



白看板が倒れかかっていた。この道がかつて国道だった証拠だ。



ぐるっと回ってトンネルの真上に来た。
来てしまえばここがトンネルの上だとは分からない。



ここがおそらく峠である。石垣が素敵。



石垣というのはなぜこんなにも素敵なのか。
適当に積んだんだろうと思わせておいて、ひとつひとつがきっちり噛み合っている。そして、自然との一体感もいい。



快適な下りが続く。





快適なのは最初のうちだけで、落ち葉だったり道路が割れていたりするので神経を使う。



集落に出た。田んぼにはもう稲が植えられている。



ラーメン屋さんのところで現道と合流する。



大洲の商店街を走っていると、味噌のいい香りがしたのであたりを見てみると、味噌を作っている会社があった。



昭和の商店街といった感じ。



西日がきつすぎてまともに撮れていないが、大洲駅に着いた。

このあと輪行して松山まで帰りました。